engawa50’s diary

つれづれ日記。Twitter : engawa50

公正な人事評価基準

会社の人事評価には、「公正性」が求められる。

評価基準が公正でないことを課題と認識し、それを改革すべく尽力しているビジネスパーソンは世の中にたくさんいるとおもう。

ぼくもちょこっとだけ採用基準というものに口をだした経験があるので、自分の考えをまとめてみる。

 

なんのための公正性?

まず、企業人事の評価基準を論じるのがなんのためか明確にしておく、ということはとっても大事なことだとおもう。

たとえば、

  • 公正な人事評価基準をもつ会社であることを外に向けてアピールして、優秀な人材を獲得したい
  • 社員に評価基準の公正性を感じてもらうことで社員の満足感を充足したい

 

などがあるだろうか。

企業活動としてわざわざやるからには、KPIというか、ゴールを明確に設定すべきであるとおもう。

制度改革の結果、「社員のアンケート調査で満足度が〇%あがったので成功」とするのか、「離職率が〇%さがったので成功」とするか、などだ。

生産性の向上などの客観的な「結果」を目的にしているのか、それとも満足度などの「公正な感覚」を社員に与えたいのか、によってアプローチは異なる点に注意が必要だとおもう。

 

「公正」とか「公平」という言葉は社会でひろくつかわれる言葉で、反対する人のいない概念なので、ともすれば目的意識なく、フワッとしたまま制度改革に手をつけることがおきかねないとおもう。

でも、ビジネスでやる以上、資本主義の企業には「株主利益の最大化」という明確なミッションがあるんで、反対しにくい概念こそ、明確な目的意識が必要だと思う。

 

いまそれがなくても経営できているなら、実はいらないのでは?

自分が重要だと感じるのはこちらの問いで、人事評価の公正性の欠如を問題と感じる企業は、なぜ今その公正性がないのだろうか。

競争の激しい現代を日々勝ち抜いている企業に公正性がないのだとすれば、そもそもいらないのではないだろうか。

 

たとえば、「公正な感覚」を社員みんなに持ってもらいたいのであれば、「客観的な指標」を軸に、評価者が変わってもあまりブレない評価がおこなわれるような、そんな制度をつくる必要があるとおもう。

そのため、「なんかいつもテンションたかくておもしろい人」とか、「お客さんとプライベートの付き合いもあって信頼を得ている人」とか、必ずしも「客観的な指標」で評価できない「価値」が人事評価に反映されないという可能性がでてくる。

 

でもそれって人事制度として認めていいことだろうか。

むしろそういうボヤ~っとしていて見えにくい、だけど仕事の役にたつスキルによって会社に貢献している人ってたくさんいるはずで、そのスキルを会社としても高く評価するからこそ、「公正な評価基準」なんて作ろうとしてこなかったんじゃないだろうか。

 

大企業であればおそらくどこでも、いくつか人材の評価軸というものがあって、年度末に上司がその評価軸を使って部下に点数をつける、といったようなことをやっているとおもう。

この評価というのは割と評者の裁量にゆだねられているところがあって、「ボヤっとしたもの」はここで吸収されているのだとおもう。

 

それがゆえに「公正でないと感じる」のだとおもうが、それって一概に「わるいこと」といえることではないよね、っていう気がしている。

 

まとまりないけど以上。

新型コロナウイルス

新型コロナウイルスについて、厚生労働省の資料などからかんたんにまとめてみる。

コロナウイルスとは

かつて流行した MERS, SARS を引き起こしたウイルスを含む、発熱や呼吸器官に症状がでるタイプのウイルス。今回問題になっているのはその新型のコロナウイルス

 

感染経路

飛沫感染(くしゃみなど)、接触感染(ドアノブなど)が考えられ、空気感染はしないとおもわれる。

※ 空気感染とは、蒸発した飛沫から感染することで、飛沫感染より広範囲な感染が発生する。

 

感染したかも?とおもったら

帰国者・接触者相談センターに相談する。条件を満たすと検査を受けられる。ただし、新型コロナウイルスに対する抗ウイルス薬などはなく、対症療法になる。

 

以下は感想。

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ツイッターなどを見ていると、素人目には感染が疑われるような症状のある人でも、濃厚接触がないという理由で検査が受けられないそうなので、感染していてもそれとわからず自宅で休んで治った、というケースは多いかもしれない。

 

病院にいっても対症療法になるので、結局は自分の免疫力で治すしかなく、また、60歳以下であれば死亡するケースはごくまれなので、インフルエンザにちかいもの、くらいにおもっている。

 

インフルエンザの薬もウイルスを殺してくれるわけではなく、増殖を抑えるはたらきしかないそうなので、自分の免疫力によって治すしかないという点ではいっしょなのかなと。

 

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html

No.20【書評】「ITビジネスの原理」/尾原和啓

ITビジネスはどうやって稼いでいるのか、日米のITビジネスの違いなどについてかかれれたこちらの本、おもしろかったので書評してみようとおもう。 

ITビジネスの原理

ITビジネスの原理

 

 

ITビジネスの稼ぎ方

ビジネスの基本は、「安く仕入れて高く売る」ということである。

18世紀、ナポレオンの大陸封鎖によってイギリスの綿の価格が大暴落し、ネイサン・ロスチャイルドは綿を大陸に密輸入することでアービトラージで莫大な利益を手にしたり、また、大航海時代にはスペインがインドから安く香辛料を仕入れて欧州で高く売ったりしたように、「安く仕入れて高く売る」はビジネスの基本原則であるとおもう。

 

著者はこれを、

(その商品を)安いと感じているところから仕入れて、高く感じているとところへ売る

と表現している。

 

「感じている」というところが大切で、この「価格差」によって利益をあげている人は、「場所によってこの商品の価値は異なる」という情報を独占しているからこそ儲けることが可能になっている。

 

 インターネットの発達によって、情報が民主化され、売り手と買い手の情報の格差が小さくなったことでこういったビジネスは難しくなってきた。

 

一方で発達してきたITビジネスとは、インターネット上でユーザーを一か所に集め、そのユーザーを欲している企業に売るという、「ユーザーを安く仕入れて高く売る」ビジネスだという。

 

情報取得のコスト

この本には「情報取得のコスト」という言葉がなんどかでてきて、だいじなポイントだなーと感じた。

これは、スマホによって世の中便利になったけれども、まだまだ便利になる余地がありますよ、というお話しで、たとえば料理の写真をスマホで撮ってインスタにあげるとき、インスタを起動し、写真を撮り、それを選択してアップロードするという数ステップが存在する。

 

これが将来ウェアラブル端末にとってかわれば、「パシャ!」みたいななんか呪文のようなものをとなえるだけで目の前の景色を写真にとり、いい感じで加工し、勝手にネット上にアップロードできるようになるかもしれない。

 

情報取得のコストが低減することによっておきる変化は、単にその時間が浮く、というだけにとどまらなくて、たとえば料理の写真をインスタにアップするときは、いまはまだ、「スマホに集中しなければならない時間」が存在する。

息をするように写真をアップするというわけにはいかないので、温かい料理がすこし冷めてしまうということもおきる。

スマホのスクリーンがVRのように仮想的に目の前に表示されるようになり、それもメガネとかかけなくてコンタクトレンズのようなものになったら、おおきな変化がおきるんじゃないかなーとかんじた。

 

日米の違い

アメリカは商品を売るビジネスだが日本は物語を売るビジネス」という話が後半で語られる。

アメリカという国は、「もともとアメリカ人じゃなかったひともアメリカ人になれますよ」という寛容な国であるがゆえ、同質性が低く、アメリカ人同士で共有する物語が少ない。

同質性がひくいので、法律になんでも書き、契約によってビジネスがおこなわれる。

 

他方で日本は同質性がとても高いので、契約なんか結ばなくても共有するコモンセンスが存在する。

 

同質性が高くて他人と「物語」を共有できるので、「これおいしかったから食べてみて!」と、他人とコミュニケーションをするために消費活動をおこなう。

 

合理だけでビジネスをしていない、という点は最近自分もすごい感じていて、たとえばSaaSで有名なSmartHRには、サービスに対する根強いファンがいるが、Salesforceにはそういう側面をあまりかんじない。

 

SmartHRにファンがいることはnoteやツイッターで検索するとよくわかるとおもう。

SmartHRは、機能追加の情報を専用のWebページにアップしていて、それを見ているユーザーのなかには「いっしょにサービスをそだてている!」といった感覚をもっているひともいる。

業務効率化サービスなのでもちろん、「業務量を1/3にへらせます!」という合理性をうたうメッセージを押し出しているけれども、「愛されサービス」になっていることがSmartHRのつよさなのかな、とおもう。

 

 

 

自分もSaaSを開発している身だけど、「合理性」以外の要素をだいじにしたいな、とかんじるようになってきた。

理由は単純で、「合理性で勝負したらグーグルにかてないから!」(笑)

 

どういう「物語」を構築するか、よくかんがえなきゃなーと感じた本でした。

書評おわり!

No.19 オウム真理教の事件まとめ

7/6、オウム真理教の死刑囚のうち7名の刑が執行された。

かれらがおこした事件をふりかえるため、オウム真理教が起こした凶悪事件をまとめたい。

 

1. 男性信者殺害事件

1989年2月10日に発生。

オウム関連で立件されている殺人事件としては一番古い事件。

この事件が発生する前年に在家信者が死亡する事件があり(立件はされていない)、その事件を見てオウムを不審に思った信者が脱会しようとしたため早川紀代秀、村井秀夫、岡崎一明新実智光によって殺害された事件。

 

2. 坂本弁護士一家殺害事件

1989年11月4日に発生。

教団に対して批判的な活動をおこなっていた弁護士とその家族が殺害された事件。

教団はこの翌年に選挙への出馬を予定していたため、教団に批判的だった被害者をターゲットにしたとされる。

実行犯は早川、岡崎、新実、村井、中川智正端本悟。事件直後は失踪事件として報じられ、95年に岡崎の自供によって真相が明らかとなる。

この事件が発生する直前の89年10月に、TBSにて坂本弁護士が教団を批判するインタビュー映像が収録されていたが、放送前にTBSスタッフが教団にこのビデオを見せたことが事件のきっかけになったのではないか、としてマスコミの報道倫理が問われる事件ともなった。

 

3. 薬剤師リンチ殺害事件

1994年1月30日発生。

当時29歳の薬剤師の男性信徒Oが、別の男性信徒Y(当時すでに脱会)の難病の母親が教団で受けている治療内容に疑問をもち、Yの親族とともにYの母親の教団からの救出を試みたところ、教団にとらえられ殺害された事件。

犯行は麻原がYにOの殺害を命じて実行された。

 

4. 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件

1994年5月9日発生。

オウム真理教被害者対策弁護団の中心人物、滝本太郎弁護士がサリンによる襲撃をうけた事件。

事件当日、甲府地方裁判所でおこなわれたか上九一色村住民とオウム側との民事訴訟のため滝本弁護士が出廷。この裁判中を狙い、麻原に命令された未成年の信者女性が滝本弁護士の車にサリンを流し込み、閉廷後の運転中に滝本弁護士は被害をうけるものの、命に別状はなかった。

 

5. 松本サリン事件

1994年6月27日発生。

長野県松本市北深志の住宅街にサリンがまかれ、死者8名、重軽傷者約600名に及んだ事件。

教団は松本市に松本道場および食品工場を建設するための土地を取得しようとしており、地元住民と土地をめぐって裁判で争っていた。その裁判で教団に不利な処分を下した裁判所に敵意を抱いた麻原は、長野地方裁判所松本支部サリンをまくことを指示。しかし事件当日すでに裁判所が閉まっていたため急遽標的を宿舎に切り替え、27日深夜、宿舎そばの駐車場にて車から端本、村井によってサリンが噴霧された。

翌日、長野県警察は近隣に住んでいた第一通報者の自宅を被疑者不詳のまま家宅捜索し、薬品などを押収。さらにマスコミによってこの第一通報者を容疑者扱いする報道が過熱する。

翌95年3月の地下鉄サリン事件後の5月、土谷正実が当事件前にサリンを製造し、渡したことを供述。

 

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今日はここまで。

以下順次更新予定。

 

No.18 文科省局長が受託収賄で逮捕

今日、文科省の科学技術・学術政策局長が逮捕されたというニュースが報じられた。

2017年5月、私立大学の研究費を補助する事業「私立大学研究ブランディング事業」の支援対象に東京医科大が選ばれるようにするかわりに、局長の息子が同大学に入学できるよう取り計らってもらった、ということらしい。

 

これはつまり「裏口入学」というやつで、最初きいたときすごいニュースだとおもった。

ドラマの設定に使われていたらチープな設定だなとおもってしまうような話。

 

そもそもどこから情報がもれたのだろうか。

大学側は点数の水増しをしたとのことだが、大学入試の採点というのはかなり厳正にやっているはずである。

ミスがあってはならないので多くの職員が採点に携わっているはずで、職員に気付かれずに大学幹部の手だけで書き換えるのは難しいのではないだろうか。

また反対に、文科省が担っていた私大支援の事業も、文科省の中では厳正な審査基準があっただろうし、局長の鶴の一声でレベルの低い事業が支援対象になるようなことがあれば、現場の官僚から怪しい目で見られることだってあったんじゃないだろうか。

 

この話、局長と大学側のなかだけの秘密とすること自体もともとかなり困難ではないかなという気がする。

 

 
科学技術・学術政策局長
科学技術・学術政策局長
科学技術・学術政策局長

No.17【書評】「逃げられない世代」/宇佐美典也

本日は、 元経産省官僚の宇佐美典也さんの新著「逃げられない世代」を読んだのでその書評。

(なぜかアマゾンのリンクをはろうとすると失敗するのでリンクはなし)

 

本著タイトルの「逃げられない世代」とは、20 ~ 30代を指しており、平成生まれの自分はこの世代である。

この本は、日本が財政や安全保障などの重要な課題の解決を先送りにしてしまっていること、また、その先送りがなぜ発生するのかを説明したあと、最後の章では、そんな社会で我々個人はどのように生きていけばよいのか、ということが語られる。

 

第1章 先送り国家日本の構造と「逃げられない世代」

この章では、日本がなぜ大きな課題を先送りし、長期的に取り組むべき課題を放置してしまうのか、ということが語られる。その中のひとつには、「野党議員が政策決定から事実上排除されている」ということがあるとのこと。

日本では法案が国会に提出される前に、与党の政調会で細かい法案の内容が決められるため、国会に出るころには官僚・与党議員の間で法案の内容が完全に固まってしまっている。国会というのは法律を決める場所だと学校で習ったが、実際にはそうではなく、国会の場で法案の内容が練られていくことはない。

野党議員にとっては、政策を勉強したところでその見識が法案に反映されることはないので、与党の足をひっぱるためのスキャンダル追及以外にやることがないということである。

 

これは55年体制ができて以後ずっと続いてきたことで、日本はそれでもうまくやってきたが、日本には社会保障という大きな爆弾があり、これをどうにかする必要がある。

本章の最後で語られるが、団塊の世代団塊ジュニア世代はそれぞれ各年度200万人ずつくらいの人口がいるので、ざっくりいって、団塊ジュニア世代1人が団塊の世代1人を支えるかたちでなんとかなるだろう。だが、いまの20代は各年度100万人ちょっとしか人口がいない。団塊ジュニア世代が年老いたあと、かれらを支える世代はいないということである。

 

第2章 社会保障の先送り課題について

本章では社会保障財政の危機的な状況について語られる。

日本の社会保障給付費は年間120兆円ほど。財源は国民みんなで月々収めている社会保険料をメインとして、税金からも補填されている。

この税金のうち、一般会計からは33兆円ほどがあてられている。日本が1年間で使う国家予算というのは97兆円ほどあるが、このうち法律で決められている地方交付税交付金15兆円は勝手に削減することなどできないし、国債の返還や利払いなどの23兆円も払うほかないので、国会でつかいみちをきめられる金額というのはだいたいそれらを差し引いた60兆円くらいしかない。

そのうち半分以上はすでに社会保障が占めている、ということである。

 

第3章 迫り来る安全保障の危機

この章では20世紀の歴史に触れながら安全保障について語られる。

日本の昭和史の中で、永田鉄山を中心とする帝国陸軍には国内に資源が少ないことに対する危機感があり、それは自由貿易によって打開しようとしたが、世界恐慌にともなうブロック経済に対抗するため、日本はアジアに打って出ようとしたとのこと。

「なぜ必敗の日米開戦に突き進んだか」は昭和史いちばんのテーマかなと思うが、個人的には、世界恐慌はひとつの大きな節目だったのかな、と感じる。

1920年代というのは日本は国連加盟国でもあり、陸軍も宇垣一茂など国際協調を重んじる人がいたり、外務大臣にも幣原喜重郎とかいて、「世界のみんなと仲良くやっていこうね」という感じは強かったイメージがある。それが世界恐慌をすぎ、1930年代にはいると満州事変、血盟団事件五・一五事件と血腥い事件が相次ぐようになる。

それでも西園寺公望昭和天皇の意を汲んで国際協調できる人物を首相にしようとしたが、特に二・二六事件以後は陸軍が強大な政治的権力をもち、陸軍の意に反する内閣を潰すことができるようになったあたりから歯止めがかけられなくなった。

当時の雰囲気は想像するしかないが、恐慌による農村の窮乏を発端として、下から突き上げるように軍部が持ち上げられていった、というのが自分の昭和史の認識である。

 

さて、本章後半では戦後の世界経済についてかたられる。

戦後、ブレトンウッズ体制としてアメリカを中心とした経済システムが構築された。しかしこれはアメリカに相当な負担を強いるもので、アメリカにはベトナム戦争によるダメージなどもあり、1971年にこの体制は崩壊。代わりにできたシステムでは金との兌換はできなくなったものの、ドル中心の体制であることには変わりないので、こちらはブレトンウッズ2ともよばれ、現在に至るまで続いている。

しかし、サブプライムローン問題などもあり、このシステムにも限界は見え始めており、また、中国の台頭などもあって、70年間続いてきた日米関係も、近い将来かたちが変わるかもしれない。

日本の衰退がこれからも続けばアメリカにおける日米関係の重要度は低下していき、これからさらに強大化していくであろう中国との関係をより重視するようになっていく、とのこと。

 

第4章 私たちはどう生きるべきか?

本章では、こんな時代を我々個人はどう生きたらいいのか、というテーマで語られる。

1950年代の日本人の寿命は65歳ほどで、55歳くらいには現役引退していたそうなので、65歳くらいで引退して85歳くらいまで生きる現代とくらべると、ここ70年で、「引退後の時間が倍増した」といえる。

そもそも年金制度というのは「引退後10年くらいの期間の生活保証」を想定して誕生したものなので、余生が倍増すれば成り立たなくなるのは当然の話だ。

「逃げられない世代」には、「サラリーマンとして給料をもらって、引退後は社会保障で食っていく」スタイルが成立しなくなることを想定し、あらかじめ準備することが求められているとおもう。

 

著者は最後に、これからの日本社会の変質は厳しいものの、日本の未来は明るいという展望を語る。

自分もわりとそう思う。近い将来日本に危機がおとずれるとすれば、一番考えやすいのは金融危機だとおもう。いまの日本は低金利だからこそ財政難がそこまで問題視されないが、ひとたび金利が上昇をはじめれば日銀をはじめ、国債保有する金融機関も財務危機におちいるとおもう。

もしそうなればその時はおおきくダメージを負うことにはなるが、その時は本著で取り上げられた、先送りシステムや社会保障問題を変革するチャンスでもある。

 

たとえば、今の高齢者世代偏重の社会保障ベーシックインカムなどに切り替われば、それは雇用市場の活性化であったり、企業の採用スタイルの変化であったりと、さまざまな分野に影響をあたえるとおもう。

日本の社会保障制度はさまざまな制度の根っこにあって密接に絡み合っているので、これが時代の要請によって改革されることになればその後の社会の変化は想像以上のものになるとおもう。

 

以上、書評でした。

本著は、経済・歴史に精通する著者が、国際社会における日本のポジションや、日本の政治制度について詳説する本で、たいへんおもしろくすぐ読んでしまいました。

おすすめです。

 

No.16 「医学を選んだ君に問う」

医学を志す人に読んでほしいという、お医者さんのかいた文章をみかけた。

 

内容はなるほどな、とおもうけど、自分はちょっと違う感想を抱いた。

お医者さんの仕事って人の生き死にに直結するんで、あんまり勉強してこなかったお医者さんに診られるのは困る。

 

でも、人の命を救うためにお医者さんになったわけではなくお金と名声のためにお医者さんになった人だって、それらのためには賢明に診察をしてくれるでしょうし、市場が機能していればそんなにお医者さんの内面に関心もたなくていいかな、と。

 

それぞれのお医者さん個人にとっては、思ってたより泥臭い仕事だとかはあるでしょうから、お金のためだけに続けられる仕事ではないとは思うものの、金のためだけに働くお医者さんも市場の一部を構成し、医学の発展には間違いなく寄与している。

 

別に医学にたいした関心のないお医者さんでも医者として給料もらっている以上は、医学界の競争原理を機能させる動力源になっている。

 

富と名声に興味のない人だけ集めた医療業界はそれはそれで発展しないとおもうので、お医者さんがバーンと儲けて、どんどこ人命救って、それをみた学生がうおー!かっこいいー!ってお医者さんを目指してもいいんじゃないかなと自分はおもう。